『憲法改正とは何か』阿川尚之

憲法改正とは何か(新潮選書)』阿川尚之

〈国のかたち〉は改憲してもかわらないこともあり、改憲しなくても変わってしまうことがある。
婦人参政権の発効は1920年と改憲史の中ではそれほど古くはない。両性の平等をうたう平等権利条項が両院を通過したのは1972年だが批准されず実現していない。
ただ、これは一連の最高裁判決によって、「解釈」による両性の平等が保障される改憲が行われたからだという。いわゆる解釈改憲である。

本書はアメリ改憲史の解説書であり、「国のかたち」に影響を与えた修正条項の意義を「事件」を交えて描き出す。
憲法連邦議会の権限については相当細かく規定しているが、大統領の権限については比較的おおまかに定められているという。執行権にはどれだけ裁量が認められるのだろうか。
ルイジアナ領土購入はジェファーソン大統領自身はそのような裁量権はなく違憲と考えていたようだが、改憲している余裕はなくナポレオンの気が変わらないうちに買ってしまえということなったようだ。
20世紀に入って大統領の権限が拡大していき、ローズヴェルト大統領のときは恐慌という例外状況の中で政府に権限を集中させる計画経済的なニューディール政策を打ち出す。
これに対しては最高裁は8つもの違憲判決を行い、最高裁と政権が対立する。政権側も「判事押し込み計画」を策定し、最高裁を弱体化させようと試みるが、さすがに与党議員も司法の独立を毀損する法案には反対にまわり成立しなかったらしい。
帝王的という形容詞が使われるような大きな権限を行使したニクソン大統領は、ウォーターゲート事件に関する最高裁の録音テープ提出命令を無視する力はあった。しかし、それをしてしまうとアメリ立憲主義を殺すことになってしまうため命令に従い潔く辞任を選択したようだ。
大統領といえども権限は無限ではない。

筆者は日本国憲法の研究者ではないので、アメリカの憲法改正の歴史にもとづいて日本の憲法改正についてなにか意見を述べようとは思わない。
合衆国憲法の改正がこうだから、日本国憲法の改正はこうあるべきだとか、こうすべきであるとか、言いたくない。

とことわりつつ、日本の憲法改正に関して「若干の感想」を述べていた箇所をメモしておこう。

GHQ民生局の憲法起草スタッフはワイマール憲法などのヨーロッパ思想に強く共感していたらしく日本国憲法は進歩的な福祉国家的な価値観を帯びたものになったがが、アメリ憲法は特定の価値観を極力排しているという。

対照的に18世紀末に制定されたアメリ憲法は、特定の価値観を憲法に盛り込むことを極力排し、もっぱら憲法学者統治機構と呼ぶ国家の仕組みを構築することに重点を置いた。
したがって当時の価値観を反映する規定はほとんどない。それを物足りなく思うアメリカの進歩主義勢力は、19世紀末から20世紀にかけて労働者、女性、少数民族の権利を、改憲あるいは実質的改憲を通じて憲法に盛り込む運動を展開し、現在に至っている。
しかし制定から約230年経っても当初の憲法典が、改正や解釈を通じてそのかたちを少しずつ変えながらもそのまま機能しているのは、憲法典が時代の価値観を盛り込まなかった点に負うと考える学者も多い。

理想を掲げる進歩的な憲法もあり得るが、価値観は時代とともに変化するし、
様々な価値観をもつ人々が共存しなければならない大きな社会では特定の価値を強制されず各々が自分の幸福、理想、目標を他者に危害を与えないかぎり自由に追求できることが望ましいと思う。
統治機構の構築に注力したのは賢明な判断だったといえそうだ。
日本には日本の「国のかたち」(constituion)があるのかもしれないので日本の伝統的な価値観を盛り込むことを否定すべきではないだろうが、
価値観てんこ盛りの憲法典は対立しか生まないのではないだろうか。

また、全面改訂に関しては以下のように述べていた。

けれども、いかにその出自に問題があろうとも、そしてその条項に多くの問題があろうとも、日本国憲法はすでに70年近く日本の最高法規として機能してきた。自主憲法の制定は、戦後70年の憲法の歴史と実績を否定することを意味する。完全な書き直しでなくても大幅な現行憲法の改正は、これまで築かれてきた憲法秩序を不安定にする恐れがある
それに新憲法の条項が、うまく機能するとは限らない。予想しなかった影響が出ることもありうる。そうであればこそ、改憲は慎重に行わなければならないし、全体のバランスを崩さぬように確かめつつ、一歩一歩進むほうが安全である。

参考にすべき「感想」だと思う。
現在の憲法で問題になるとしたら戦争放棄条項くらいしか思い浮かばないが、瑕疵のある個所に焦点を絞らなければ、文章や語彙の選択の良し悪しくらいの議論しかできない。
そんな議論をしても不毛だと思う。
細谷雄一『自主独立とは何か(前編)(新潮選書)』を読むと、GHQ民生局のチャールズ・ケーディスが、どの国にも認められる自己保存の権利、自衛権までを放棄することがないように文章を修正したらしい。
そして国際社会では天皇制への逆風が強まっていた時期において、
戦争放棄条項は天皇制を象徴としてすら残せるかどうかの瀬戸際での賢明な、そして恐らく「この外に行くべき途はない」唯一の選択だったらしい。
幣原喜重郎(総理)が陛下に「委曲奏上」したときのエピソードを吉田茂「回想十年」からの孫引きになるが引用しよう。

この間、閣議で一番問題になったのは、天皇の地位を表現する象徴という字句であった。これをめぐって、閣僚間に議論百出の有様であったが、幣原総理が陛下に拝謁して、
憲法改正に関する総司令部との折衝顛末を委曲奏上し、陛下の御意向を伺ったところ、
陛下親ら『象徴でいいではないか』と仰せられたということで、この報に勇気づけられ、閣僚一同この象徴という字句を諒承することとなった。
故に、これは全く聖断によって、決まったといってもよいことである。

単に自衛隊の位置づけの曖昧さだけが問題ならば、放置しておくのも手のようだ。
仲正昌樹氏は『精神論ぬきの保守主義(新潮選書)』の中で

仮に論点が純粋に前者だけ、すなわち、自衛隊憲法上の位置づけの曖昧さをめぐる問題だけとすれば、その曖昧さを解消するために国防軍の規定を新たに九条に盛り込むというのは、
バジョットなどの制度的保守主義から見てさほど賢明な発想ではないだろう。
曖昧なまま、あるいは憲法違反に見える状態のまま、自衛隊という組織が数十年間安定して運営され、アメリカを中心とする安全保障体制に組み込まれ、PKOなどにも参加しながら、未だに戦争に巻き込まれていないという事実をポジティブに評価するのであれば、それを焦って変える必要はない。
曖昧だったからこそ、アメリカなどの西側諸国との関係を良好な状態に保ちながら、アメリカと対立する諸国との関係を決定的に悪化させることを回避することができたと見ることができる。

と述べている。

自衛権が認められているのは国際的な常識だというのは耳にするし、実際、防衛のための組織は存在するのだから、別に今の憲法のままで問題はないと思うのだが、他の事情があるのだろうか。
むしろ、

  • 防衛のための組織は存在しても「キャデラック趣味」でない防衛のための通常の装備はあるのか?
  • 兵站の装備は十分か?
  • 燃料の戦時備蓄はあるのか?
  • ポジティブ・リストで大丈夫なのか?

など色々と課題がありそうなので、まずはそういった現実的な面での整備が求められるように思うのだが実際のところどうなのだろうか。
清谷信一『防衛破綻』「ガラパゴス化」する自衛隊装備)


「読書メモ」はほとんど引用だけになってしまっているが、今回は新潮選書から。