『賃労働の系譜学』今野晴貴~社会のヘゲモニーの変容

すき家でのワンオペ中での死亡事故の記憶がまだ新しいときに、すかいらーくグループのプレスリリースに「ハラスメントに関する報道について」というのを目にした。
(プレスリリース一覧 2022年07月22日)
https://corp.skylark.co.jp/Portals/0/images/news/press_release/2022/220722_%E3%83%8F%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A0%B1%E9%81%93%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/20220722.pdf?_gl=1*beuicx*_ga*MTE5ODAwMDIxMS4xNjEyNzU1MTgy*_ga_0S46H09XTP*MTY2MDAyNzg4MS40Mi4wLjE2NjAwMjc4ODEuNjA.*_fplc*JTJCTkFYVmdsUTNRTGhkMjdhZk9ITVdiZmozMmglMkY0JTJGTmhka1JpVTFmeUVZamhlV0VTMzRFcEsyaDR5OXd3YnBaVmJiNlhyRGx4YWNKUm02RTRRaHphYmZKbTA1VXFDYVY0ZzIlMkJ4UzloYWdNNHRVNlRFZnBpbW91STdFJTJGczQ5QSUzRCUzRA..
「ハラスメント」とは、何があったのだろうと思い、ネットを検索したら雇用・労働政策研究者の今野晴貴氏の記事が見つかった。

「ジョナサン」店内で暴力事件 肋骨骨折も「勉強になったな」「また折られてえのか?」(今野晴貴) - 個人 - Yahoo!ニュース

『賃労働の系譜学』今野晴貴 ~社会のヘゲモニーの変容

「賃労働」と「系譜学」

本書の題名の「賃労働」はカール・マルクスから、「系譜学」はミッシェル・フーコーからの用語・概念だという。
公式の学問体系では労働の従属が蔓延し社会が破壊されつつある今日の日本社会の行き詰まりを説明することができないでいる。
だからこそ、系譜学の方法で既知の知識体系に収まらない問題提起が求められているという。
辣腕の社会活動家でありながら本書では学者肌な面を見せてくれる。

物象の人格化

「私たちはどう自分の労働力を売るのかばかりを考えて生きている。・・・その中で自身の価値観や欲望さえ変質していく事態は、「物象の人格化」と呼ばれる。」
物象(モノ、貨幣・商品)の関係が人間の関係を規制してしまう転倒した関係が成立している。
ミッシェル・フーコーの「系譜学」やら「物象の人格化」やら難解な用語が出てくるが、以下の説明でなんとなく分かるような気がした。

私はよく、労働問題に関する講演などで「経営者はなぜこんな酷いことができるのですか?」と問われることがある。その理由こそが物象の人格化である。
経営者や上司も、物象化した関係性の中で、自らのふるまいを選択せざるを得ないからだ。過労死を引き起こすような業務命令も、それが経営上妥当であれば選択せざるを得ない。
同業他社に長時間労働が蔓延していれば、ますますこの選択は議論の余地のないものとして受け止められていく。
こうしたことは、過酷労働の直接の加害者となった上司が、後に会社に標的にされ労働相談に訪れた場合に実感することができる。
加害者側に回った管理職たちも、最初は無理なノルマや命令を出すことに疑問を覚えていたが、やがてそれが「当たり前」だと感じるようになっていったと証言する。
そして、自らが標的になってようやくその問題に気づくのである。(p39)

産業空洞化により製造業から労働集約型のサービス産業に大きくシフトし、労働生産性の増大が見込めないため、利潤を獲得しようとすれば、労働者の低賃金・長時間労働が前提になる。
経営戦略であるとともに、ブラック企業問題は資本主義社会における構造的な問題であるという。
中には、まともな経営者もいるだろうが、業界にブラック企業があれば自然と淘汰圧がかかり、そのような経営者はやがて消えていくだろう。
企業として生き残りを図るのであればブラックなことに手を出さざるを得ない。
そんなグレシャムの法則が支配する状況なのだろうか?

パワハラ、ましてや暴行を伴う行為は決して許されるべきではないが、ただ非難するだけでなく「物象の人格化」という視点から現実を解釈、理解しようとする試みは参考になる。
日本社会に強烈な賃労働規範が存在し、全人格を企業による評価にさらし、自らの考え方や生活態度を会社にとって好ましいものへと自発的に適合させていく。
肋骨を骨折してもなお勤務を続ける心理はそんな状況の表れなのかもしれない。

若干の感想

本書は私にとって難解であった。だが、その難解さが漠として言葉に表現できないでいる。
新自由主義的なメンタリティーを持っているので賛同できない面もあって当然だが、理解できないというのはまた別だ。
労働組合運動が論じられている内容を理解できない。
所詮は他人事という本音が障害になっているところもあるだろう。
しかし、この難しさはいったい何なのだろう?
「おまえにはもっと学習が必要なんだよ!」「もっと勉強してから読め!」