『過労死ゼロの社会を』高橋まつりさんはなぜ亡くなったのか

高橋まつりさんの母親の高橋幸美さんと代理人である川人博氏とが様々な場で発言してきたことをまとめ、社会に向かって訴えたいことを加筆して一冊の本にした本書を読んだ時のメモを記録しておこう。
ただし、過労自殺にまで至る過重労働やパワハラの実態についてはここでは触れない。
「私たち親子は普通の生活をして普通に幸せになりたかった」幸美さんの「まつりと私の二十四年」に関して簡単にメモしておきたい。

まつりさんは電通社員の大嶋一郎さんが亡くなった年、1991年の11月に生まれた。
小さい頃は引っ込み思案だったが、小学校にあがるとクラス代表や児童委員の役員を務めるなど積極的になり、1年生の家に迎えに行ってその子を連れて登校するなど近所の下級生の面倒もみていた。
学校まで連れて行ってもらっていたという女の子は、まつりさんが亡くなったあと家にお線香をあげに来てくれたという。
私立中学への進学を目指して小学校5年生から塾に行くようになり夜の10時までひとりで自習をして迎えが来るのを待っていたというのだから驚きだ。その努力の甲斐あってか、中高一貫加藤学園暁秀中学校に授業料が免除となる特待生で合格した。
母子家庭となった経緯については触れられていなかったが、母子家庭ならではの「所得格差」が存在し、まつりさんも経済的負担をかけないことが一番の喜びとしていた。その後は勉強とバスケットボールに励む中学、高校生活を送っていた。
いよいよ大学受験をひかえて、もともと授業料の安い国公立を目指していたが、担任の先生に予備校に通う相談をしたところ
「予備校や塾に通う必要はありません」との答え。突き放されたのではなく、学校側からの期待もあってか全教科の先生たちが補習授業をしてくれる「まつり東大合格プロジェクト」がスタートしたのです。
ときには心が折れそうなこともあったようですが努力を続け見事、合格。困難な境遇に於いて諦めないでひとつの夢を叶えた瞬間です。
大学生のときに夢のひとつである海外留学も実現させています。清華大学に1年間留学し、北京でもたくさんの友人に恵まれたそうです。中国語の学習を支援してくれた清華大学の学生は、まつりさんのお墓参りに来てくれたそうです。学生寮のルームメイトだったシンガポールから来た女子学生は、まつりさんの命日に静岡まで弔問に訪れてくれたそうです。

生きて社会に貢献することを目指していたまつりさん。
普通に働いて、普通に生活できて、普通に幸せになれる社会を私たちは作っていくことができるのだろうか。